まあ、その点は技術論なので目を瞑るとしよう。しかし、次の部分はいただけない。
言論表現の自由は、断じて変態や犯罪行為の自由までも保障したものではないのである。言論表現の自由は、犯罪の自由を保障していない。これは正しい。
しかしながら、「変態」というのは思想上の問題だ。思想の自由は完全に保障されている。たとえ、残虐非道な犯罪行為を行いたいという変態思想を持っていたとしても、それを実行に移さない限り罰せされることはない。
言論表現の自由は、断じて変態や犯罪行為の自由までも保障したものではないのである。言論表現の自由は、犯罪の自由を保障していない。これは正しい。
まさに友野容疑者が採用された1986年といえばバブルの真っ最中。警官のなり手がなくて、試験らしい試験もせずに人をかき集めた時代なのだ。ええと…私、その当時某県警(って、どこかバレバレですが)を受験したのですが…恥ずかしながら、
「裁判所は、戦争の災禍は等しく国民の上に降りかかった。孤児だけが特別ではない、と言います。本当にそう思っているんですか。日本が侵略した国に女と子どもだけが残された。その人たちがどんな目に遭うか。国はそれさえも想像できないと言い張るのですか」辛い目に遭われたことは本当だろうし、理解もできます。
勝美さんの父親は旧満州で現地応召されたからです。現地応召と言うことは、満州現地で召集令状を受け軍務に就いた、つまり、兵隊に行く以前から満州に居た、ということです。なぜ現地に居たかというとおそらく、満州に殖民したからでしょう。満州殖民は何も、国家が強制したわけではありません。各個人の判断で満州へ渡ったはずです。
いま、裁判員制度に参加したくないという国民の大きな理由の一つに「冤罪だったとき、生涯、罪の意識に苛まれる」というものがある。と、ここまでは異論はない(法理論的にはいろいろあるんだとは思うが、そこは私も詳しくない)。
こんな人間性のカケラもない裁判長の横に、健全な国民を置いてはならないのである。「人間性のカケラもない」は言いすぎだと思うが、そこは目を瞑るとしよう。でも、そういう法曹界に欠けた「人間性」を取り戻そう、というのが裁判員制度の目的だ。今回のケースでも、裁判員制で裁かれていれば、証人喚問を行うべきだ、と裁判員が主張した可能性は非常に高いはずだ。それに、裁判官が犯した間違いも、複数の裁判員が精査すれば正すことができるかもしれない。
先週は43年ぶりに小中学生の全国一斉学力テストが実施された。私立の小中学校の4割もが参加しない学力テストなんて何の意味があるのか。要するに氏は「意味がない」と言いたいのだろう。しかし、そんなことはない。なぜなら、小中学校における私立学校の割合は、ごく少ないからだ。全小学校における私立の割合は0.8%。その4割が参加しない、と言うことは、参加しない私立小学校は、全小学校の内の0.32%にしかならない。逆に言えば、99.6%の学校が参加したということ。中学校で言うと、もう少し数値は下がるが、それでも97%以上の参加、という数値を得る。
結局は安倍総理が提唱している学校バウチャー制度、学校間に格差をつけて、優秀な学校にはより手厚く、ダメ学校は切り捨てる。そのような懐疑を抱くことは、ジャーナリストとしては当然かもしれない。しかし一方で、現実に存在している学校間の学力格差という問題を、氏はどのように解消すればいいと考えているのだろうか?問題の正確な把握なしには、問題の解決はありえない。学力調査をしなければ、学力格差は解消されない。
子守歌を聞かせて母乳で育児しろだと。えっ、それじゃあ何かい。「浪曲子守歌」じゃないけど、逃げた女房に未練はないおとっつあんが、お乳欲しがるこの子 がかわいい、と言いつつ、子守歌など苦手な親父のド演歌のひとつもうなって聞かせたんじゃ、ロクな子どもは育たないというのか。親学のレベルも低いが、この反論もレベルが低すぎ。言いがかりに過ぎない。現実の教育問題では、一つの要因が結果を支配してしまう、ということは殆どありえない。もしそうなら、そんな単純な問題はとっくに解決しているはず。現実には、複数の要因が関連して結果が生まれている。教育再生会議だって、子守唄を聞かせなかったら即ロクな子供が育たない、などとは当然言っていない。挙げた例の内、複数のものが「ダメ」なら結果も「ダメ」の可能性が高い(のではないか)と言っている。
その子どもに将来、何かあったとき、母親は、自分はあの親学の通りには出来なかった、この子に申し訳のないことをしてしまったと悩まなければならないのか。これまた無意味な反論だ。親学の通りのできたかどうかはともかく、どちらにせよまともな親なら「その子どもに将来、何かあったとき」には悩むに決まっている。親も人間。完璧ではないのだから、いつも悩みはあるだろう。逆に、親学がなければ親は「その子どもに将来、何かあったとき」に悩まなくて済むという問題でもない。
それに有識者のみなさんはずい分とテレビがお嫌いなようだが、テレビにも素晴らしいドキュメンタリーや、大自然や動物の世界を描いた心揺さぶられる作品も ある。反対に演劇にも、小難しい自己表現とやらで、頭がこんがらがってくるような駄作もある。何を基準に演劇を鑑賞しろ、と声高に叫んでいるのか。その理由は簡単。TVには「古典」がないからだ。古典とは、時間の淘汰に耐えた優れた作品のこと。TVにはそれがないが、演劇にはある。古典になっているかどうかを「基準に演劇を鑑賞しろ」と言えば十分。「小難しい自己表現とやらで、頭がこんがらがってくるような駄作」は、少なくとも古典には含まれない。
参加校の内訳は小学校2万1952校(99.64%)▽中学校1万501校(97.54%)▽中高一貫教育をしている中等教育学校22校(88.00%) ▽特別支援学校(旧盲・聾・養護学校など)281校(99.65%)。とある。私の試算は、Wikipediaの記事を基にしたが、ほぼ正確だった。私立・公立学校数については、文部科学省の発表資料(PDF)がある。
つまり目に見えないものは、とりあえずなかったことにしておく。ないことにしてあるんだから、その対策なんてもってのほかという、いい加減な社会ではないかということなのである。と書いている。つまりこれは
嗜好の違う人を許さない原理主義ではないのかなんてユーモアのカケラもない反論をするのは