甘党なら、あんころ餅は心のふるさとのような存在かもしれない。「ここだけは安泰」と信じた旧来の和菓子ファンは、帰る所を失った心地ではないか。伊勢名物、赤福の偽装である▼包装ずみの商品を冷凍保存し、包み直して売っていた。品切れを防ぐため、70年代から続くやり方だという。解凍し、再包装した日を製造日と偽った品は、過去3年の出荷量の2割近くになる▼小欄にとって、赤福の後味はほろ苦い。8月、北海道銘菓「白い恋人」の賞味期限偽装を取り上げた。経営者が赤福の伝統を目標にしていたことを紹介し、こう書いた。「今年創業300年の赤福の餅は、ごまかせない『製造日限りの販売』だ。伝統にはそれぞれ、理由がある」▼読者の皆様から「赤福にはもちろん、天声人語にも裏切られた」というおしかりや、「天声人語も犠牲者だ」とのご意見をいただいた。いずれにしても老舗(しにせ)の看板に目が曇り、公式サイトの言い分をうのみにした不明は恥じるほかない▼思えばここ30年ほど、赤福の評判は冷凍庫の中で保たれていたわけだ。風味に自信があるなら、冷凍品がまじる事実を堂々と明かせばよかった。銭勘定の下心をうそというあんこで包んでは、伝統さえも凍え死ぬ▼赤福は、長旅で疲れたお伊勢参りの旅人を癒やす餅から出発したと聞く。名前の由来は「赤心慶福」。偽らない心で、善男善女の幸せを一緒に喜ぶ志である。菓子としての素朴さ、作り手の愚直さ。そうした持ち味のあれやこれやが、営利の厚氷の中で震えている。まあ、今回は朝日新聞が悪いわけじゃないと思いますけど。
2007-10-20
今回はアサヒったわけじゃ>天声人語赤福問題
ご存知天声人語ですが、やらかしてしまったようです(笑)。白い恋人の賞味期限改竄問題のときに、こともあろうに「赤福を見習え」と書いちゃったらしいです。問題の記事を引用します。
2007-05-07
朝日新聞『60歳の憲法と私』浦部法穂氏
前にも取り上げが、朝日新聞に「60歳の憲法と私」という連載コラムが載っている。朝日新聞のサイトにはないが、ここに全文が引用されている。
一読しての感想は「また胡乱な」だ。まず冒頭からが胡乱だ。
氏が主張するように、これらを敢えて憲法に盛り込まず、第13条から導出すればよい、という意見はあっても構わない。しかし、この議論自体を行わないとか、あった議論をなかったことにするような発言はおかしい。
他にも現憲法について、「具体的に」「どこが悪いのかがきちんと議論されている」例はたくさんある。例えば、私学助成金との矛盾を指摘されている第89条
また例えば、第9条。完全な非武装平和主義者でない限り、第9条になんの矛盾もない、とする人はいないはずだ(完全な非武装平和主義者は、第9条には矛盾はなく、実際に行われている政治に憲法との矛盾を見出すだろう)。もちろん、具体的な議論が行われている。
以上、現憲法について「具体的に」「どこが悪いのかがきちんと議論されているわけではない」というのは、間違っている。端的に言って嘘だ。嘘でないと言うのなら、その理由を説明すべきだろう。とは言っても、嘘は嘘で、いくら言い繕おうが嘘でない事にならないが。
「胡乱だ」と感じた点は他にもある。氏はとにかく解釈改憲が好きなんだろう、ということだ。例えば、前にもあげたが、第13条の問題だ。
おそらく、第9条の問題を取り上げないのも解釈改憲主義者だからだろう。でも、軍事という非常な危険なものを解釈次第で変えることができるものでしか縛らない、ということに危険を感じないとすれば、「鈍い」としか言いようがない。
解釈次第で憲法の内容が変わる(あるいは、変わりやすい)というのは、果たして「憲法が大切にされている」と言えるのか?それは、憲法が権力を縛るのではなく、権力の地位に就いたものの解釈が権力を縛る、ということだ。これは、
最後に、氏は次のようなことをさらっと書いている。
第一、「他人の人権を侵害しない」ということを「公共の福祉」等と言う言葉で表さねばならない理由が解らない。逆に、「公共の福祉」という言葉を聞いて「他人の人権を侵害しない」と解釈する人はほとんどいないはずだ。もし氏の言うことが本当だとしても、そんな不自然な言葉遣いは訂正すべきだ。結果として改憲賛成、とならなければならない。でも、氏の結論はその全く逆だ。
なぜこんな胡乱な意見を嘘をついてまで主張しなければならないのか?非常に理解に苦しむ。
追記 2007.5.6(日):
「公共の福祉」を「他人の人権を侵害しない」と解釈するのは、一元的内在制約説と呼ばれ、通説となっているようです(Wikipediaの記事)。私の不明でした。でも、非常にわかりにくい言葉・解釈であることには違いないですね。もしそのように解釈するなら、はやり表記を改めるために改憲すべきでしょう。
一読しての感想は「また胡乱な」だ。まず冒頭からが胡乱だ。
具体的に憲法のどこが悪いのかがきちんと議論されているわけではない。嘘を言ってはいけない。まず、氏が挙げたような「環境権やプライバシー権、犯罪被害者の権利」に関してはいろんな議論がなされている。だからこそ氏も
時代が必要としている権利を盛り込むべきだという議論がある。と書いているのだろう。
氏が主張するように、これらを敢えて憲法に盛り込まず、第13条から導出すればよい、という意見はあっても構わない。しかし、この議論自体を行わないとか、あった議論をなかったことにするような発言はおかしい。
他にも現憲法について、「具体的に」「どこが悪いのかがきちんと議論されている」例はたくさんある。例えば、私学助成金との矛盾を指摘されている第89条
第89条 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。の問題を憲法の専門家である氏が知らないはずはない。この条文は、私学助成金だけでなく、NPOへの支出でも問題になるはずだ。
また例えば、第9条。完全な非武装平和主義者でない限り、第9条になんの矛盾もない、とする人はいないはずだ(完全な非武装平和主義者は、第9条には矛盾はなく、実際に行われている政治に憲法との矛盾を見出すだろう)。もちろん、具体的な議論が行われている。
以上、現憲法について「具体的に」「どこが悪いのかがきちんと議論されているわけではない」というのは、間違っている。端的に言って嘘だ。嘘でないと言うのなら、その理由を説明すべきだろう。とは言っても、嘘は嘘で、いくら言い繕おうが嘘でない事にならないが。
「胡乱だ」と感じた点は他にもある。氏はとにかく解釈改憲が好きなんだろう、ということだ。例えば、前にもあげたが、第13条の問題だ。
13条は包括的な人権保障規定であり、いわば「ドラえもんのポケット」のようなものだ。どんなものでも導出できる規定、という胡乱なものに、何の危険も感じないのだろうか?人権というのは、そんなに手放しで素晴らしいと言える様な完全無欠なものなのか?
おそらく、第9条の問題を取り上げないのも解釈改憲主義者だからだろう。でも、軍事という非常な危険なものを解釈次第で変えることができるものでしか縛らない、ということに危険を感じないとすれば、「鈍い」としか言いようがない。
解釈次第で憲法の内容が変わる(あるいは、変わりやすい)というのは、果たして「憲法が大切にされている」と言えるのか?それは、憲法が権力を縛るのではなく、権力の地位に就いたものの解釈が権力を縛る、ということだ。これは、
憲法が大切にされないとどうなるか。憲法が権力を縛るのでなく、権力が正義そのものになる。やがてナチスが台頭し、ヒトラーは正義を掲げて独裁者となった。と氏が主張しているような「権力が正義そのものになる」状態だ。つまり、解釈改憲は危険なものであり、それを(できる限り)許すべきではない、と結論付けねばならない。なのにそう主張しないのは、憲法学者のテリトリーを死守しようとしてるからだ、と考えるのは穿ち過ぎだろうか?
最後に、氏は次のようなことをさらっと書いている。
現憲法は国民の権利について、「公共の福祉」に反しない限り尊重されるとしている。それは他人の人権を侵害しない限りという意味だ。はっきり言って、そんな解釈は初めて聞いた。Aさんの人権とBさんの人権は、無矛盾であるはずがない。人権と人権が衝突することは当然ありうる。しかし、AさんとBさんは、平等なのだから、何らかの調整が必要になる。これは当たり前のことだ。憲法に明記する必要がない。なのにそれがわざわざ憲法に書いてあるとする主張には無理がある。
第一、「他人の人権を侵害しない」ということを「公共の福祉」等と言う言葉で表さねばならない理由が解らない。逆に、「公共の福祉」という言葉を聞いて「他人の人権を侵害しない」と解釈する人はほとんどいないはずだ。もし氏の言うことが本当だとしても、そんな不自然な言葉遣いは訂正すべきだ。結果として改憲賛成、とならなければならない。でも、氏の結論はその全く逆だ。
なぜこんな胡乱な意見を嘘をついてまで主張しなければならないのか?非常に理解に苦しむ。
追記 2007.5.6(日):
「公共の福祉」を「他人の人権を侵害しない」と解釈するのは、一元的内在制約説と呼ばれ、通説となっているようです(Wikipediaの記事)。私の不明でした。でも、非常にわかりにくい言葉・解釈であることには違いないですね。もしそのように解釈するなら、はやり表記を改めるために改憲すべきでしょう。
2007-04-11
内田樹氏の胡乱なコラム『「軍隊なし」は平和ボケか』
朝日新聞2007年4月10日付朝刊に、『60歳の憲法と私』というコラムが載っていた。いろんな論者を迎え、不定期連載するものらしい。その第一回目は、内田樹氏だ。タイトルは『「軍隊なし」は平和ボケか』とある。ネット上に文章がないため、全文引用する。引用の際のタイプミスは、私に責任がある。
ならばハッキリその様に書けば良さそうなものだが、何故は氏は結論を曖昧にしている。これにはおそらく、次のような理由があるのだと私は推測している。
氏は、日本が「国際社会で侮られて」いることを認めていて、その理由を日本が「アメリカの属国だから」だとしている。では、なぜ日本がアメリカの属国であると言えるのか、と言えば、直接には「日本人にとって9条と自衛隊に矛盾がないと認めることは日本がアメリカの軍事的属国だと認めること」だと述べている。
しかしこれは疑問だ。9条と自衛隊に矛盾があると認めれば、日本がアメリカの属国ではない、と言えるのか。そんなことは言える筈がない。氏が「9条という縛りがある限り、日本はアメリカにとって「安全な国」であり続ける」と指摘している通り、「9条という縛りがある限り」、日本はアメリカの属国なのだ。
そしてこのことは、氏が「日本が侮られるのは9条があるからではない」という主張と矛盾する。この矛盾を抱えているため、氏は結論を曖昧にせざるを得ないのだろう。
そうでない、というのなら、9条と自衛隊に矛盾があると認めれば、日本がアメリカの属国ではない、とする理由を述べるべきだ。また、認められたその矛盾を敢えて訂正しない理由も示すべきだ。氏は、それが「絶妙な政治的トリックだと思う」という胡乱な理由で肯定するのみで、具体的な理由を示してはいない。
とまあ、大筋でも曖昧で根拠の薄い主張だが、細かいところもツッコミどころ満載だ。氏は、「9条と自衛隊に矛盾がないと認めること」を「受け入れるだけの心理的成熟を」日本人は「果たしていない」と主張している。でも、それを認めることは「日本がアメリカの軍事的属国だと認めること」だとも主張している。成熟というのは、自国が他国の軍事的属国であることを受け入れることなのか。だとしたら、そんな成熟は、日本にとって好ましいものなのか。
もしそんな成熟が好ましいと主張するのなら、それを基地問題で悩む沖縄の人たちに向かって主張していただきたい。日本は米国の軍事的属国なのだから、お前らも早いとこ成熟して米軍基地を受け入れろ、と。
「政治的トリックとして、戦後に日本のすべての不幸は、9条と自衛隊の矛盾から生まれているという、日本人以外の誰も信じていない「物語」を信じる」とあるが、そんなことを信じている人は、日本人でも外国人でもごく少数だろう。どこの誰がそんなことを信じているのか教えてもらいたい。
「侮られたくないならアメリカと手を切って「アメリカに核を撃ちこむ権利」を留保するしかない」というのは、意味が解らない。もともと非核武装国家である日本には、「アメリカに核を撃ちこむ権利」などない。それを「留保」せよ、とはどう言う主張なのか。しかも「改憲派の諸君にその覚悟はあるまい」というのはさらに意味不明だ。アメリカに対して持ってもいない核兵器を使用しないことに、それほどの覚悟が必要なのか?
おそらく、「保有」の誤記なのではないかと思うが、ならば、「改憲派の諸君にその覚悟はあるまい」という推測は間違っている。今、自主独立・核武装論を主張する人は、決して多数派ではないが少なからず居る(参考)。彼らはもちろん改憲派である。
「「水と安全がただ」のエルドラド」というのも間違った認識だ。水道水は只同然だが、スーパーやコンビニには飲料水が売られており、ごく普通に買われている。安全が只だというのなら、セコムが個人向けサービスを展開することはないだろう。北朝鮮による拉致も現在進行中の問題だ。これのどこが「水と安全がただ」だと言うのか。他の国よりは安全なのは間違いないが、黄金郷を自称・自尊するほどではない。氏の意見は、よく言って誇大表現、悪く言えば妄想か時代遅れだ。
「軍事的プレゼンスを取り戻す代わりにこの平和と生活の質を失ってもいいと改憲論者が本気で思っているなら」というのも意味不明だ。軍事的プレゼンスを取り戻すのに、防衛費が極端に増大する、というのなら話は解るが、その根拠がない。日本の軍事費は、世界第四位。フランスやイギリス、ドイツよりも多い。にも関わらず、軍事費の対GDP比は、1%以下である。世界平均は3.5%程度だ。なお、日本の防衛費の中には、在日米軍の駐留費用も含まれている。
これより防衛費を増やさねばならない、というのならその根拠を述べるべきだろうし、その増大分が「平和と生活の質」を圧迫する、とする根拠も示すべきだ。
「北朝鮮のような軍事国家になる覚悟がないなら、改憲は口先だけにしておく方がいい」というのも意味が解らない。北朝鮮の例は、核を持てば軍事的プレゼンスと国際的発言力が飛躍的に高まる、という事実を示している。北朝鮮が、軍事国家であった理由は、まだ戦争中(休戦中)であるからだし、国内に睨みを効かせるのに軍隊が必要だからだ。後者はともかくとして、前者は核保有国となった今となっては無効かもしれない。一方日本は、その気になれば数ヶ月で核兵器開発が可能であるとも言われている。
以上より、日本が核兵器を保有するのは比較的簡単・短期間に実現でき、核兵器で軍事的プレゼンスが上がる分、通常兵力の削減を行うことが可能と言える。これは必ずしも軍事大国化ではないし、少なくとも「北朝鮮のような軍事国家」になる必要はない。
そうでない、というのなら、なぜ改憲が「北朝鮮のような軍事国家」化に繋がるのか、その具体的な理由を述べるべきだ。
最後になるが、「改憲派のロジックを突き詰めると、いずれは日米安保の廃棄、自主核武装、米国を含むどの国とも戦争することのできる「ふつうの国」になるという結論に行き着く」は何を言いたいのか不明だ。どの国とも戦争することができるからと言って、見境なしに戦争するわけでもないし、すぐに近隣諸国を侵略開始するわけでもない。
逆に、戦争できない、ということであれば、相手が一方的に宣戦布告してきた場合、どうするのか。国際法上、戦争は一方の宣戦布告から始まる。厳密に言えば、宣戦布告された時点で、戦争できない日本は、すべての軍事行動が不可能となる。
この問題が「絶妙な政治的トリック」でなんとかなる、と言うのなら、憲法のどんな部分も「絶妙な政治的トリック」で無視することが可能になる。そんな憲法は無意味だ。憲法を無意味なものにしたくないのなら、「絶妙な政治的トリック」などという誤魔化しは否定すべきであり、憲法は改正すべきだ。
戦争の放棄をうたった憲法9条と自衛隊の不整合というのは、絶妙な政治的トリックだと思う。いわば、羊頭狗肉。羊と狗の間の不整合になんともいえない妙味がある。まず、改憲すべきと言っているのか、改憲すべきでないと言っているのか、結論が不明確だ。おそらく、最初に「憲法9条と自衛隊の不整合」に対して、「なんともいえない妙味がある」と述べているのだから、不整合ではあるが改憲すべきでない、と言っているのだろう。
9条はアメリカが日本を軍事的に無害化するために与え、自衛隊は軍事的に有用化するために与えた。アメリカの世界戦略の枠組みの中で見ればその二つの間に矛盾はない。自衛隊をつくった時に9条に手をつけなかったのは、東西冷戦のなか、「日本軍」とマルクス主義的反米ナショナリズムが結びつくことを警戒したからだ。9条という縛りがある限り、日本はアメリカにとって「安全な国」であり続ける。
しかし、日本人にとって9条と自衛隊に矛盾がないと認めることは日本がアメリカの軍事的属国だと認めることであり、日本人はそれを受け入れるだけの心理的成熟を果たしていない。そこで、政治的トリックとして、戦後日本のすべての不幸は、9条と自衛隊の矛盾から生まれているという、日本人以外の誰も信じていない「物語」を信じるという病に進んで陥ったのである。
その見返りに、日本は大きな疾病利得を得た。60年に及ぶ平和だ。
「軍隊がないから国際社会で侮られる」という改憲派のロジックを突き詰めると、いずれは日米安保の廃棄、自主核武装、米国を含むどの国とも戦争することのできる「ふつうの国」になるという結論に行き着く。日本が侮られるのは9条があるからではない。アメリカの属国だからである。侮られたくないならアメリカと手を切って「アメリカに核を撃ちこむ権利」を留保するしかない。改憲派の諸君にその覚悟はあるまい。
日本には世界に誇れるものがいくらでもある。サービスの水準は世界最高だし、「水と安全がただ」のエルドラド(黄金郷)だ。世界でも例外的な「美しい国」を60年かけて営々と築き上げてきたのである。
軍事的プレゼンスを取り戻す代わりにこの平和と生活の質を失ってもいいと改憲論者が本気で思っているなら、彼らこそ「平和ボケ」しているのだと思う。北朝鮮のような軍事国家になる覚悟がないなら、改憲は口先だけにしておく方がいい。
ならばハッキリその様に書けば良さそうなものだが、何故は氏は結論を曖昧にしている。これにはおそらく、次のような理由があるのだと私は推測している。
氏は、日本が「国際社会で侮られて」いることを認めていて、その理由を日本が「アメリカの属国だから」だとしている。では、なぜ日本がアメリカの属国であると言えるのか、と言えば、直接には「日本人にとって9条と自衛隊に矛盾がないと認めることは日本がアメリカの軍事的属国だと認めること」だと述べている。
しかしこれは疑問だ。9条と自衛隊に矛盾があると認めれば、日本がアメリカの属国ではない、と言えるのか。そんなことは言える筈がない。氏が「9条という縛りがある限り、日本はアメリカにとって「安全な国」であり続ける」と指摘している通り、「9条という縛りがある限り」、日本はアメリカの属国なのだ。
そしてこのことは、氏が「日本が侮られるのは9条があるからではない」という主張と矛盾する。この矛盾を抱えているため、氏は結論を曖昧にせざるを得ないのだろう。
そうでない、というのなら、9条と自衛隊に矛盾があると認めれば、日本がアメリカの属国ではない、とする理由を述べるべきだ。また、認められたその矛盾を敢えて訂正しない理由も示すべきだ。氏は、それが「絶妙な政治的トリックだと思う」という胡乱な理由で肯定するのみで、具体的な理由を示してはいない。
とまあ、大筋でも曖昧で根拠の薄い主張だが、細かいところもツッコミどころ満載だ。氏は、「9条と自衛隊に矛盾がないと認めること」を「受け入れるだけの心理的成熟を」日本人は「果たしていない」と主張している。でも、それを認めることは「日本がアメリカの軍事的属国だと認めること」だとも主張している。成熟というのは、自国が他国の軍事的属国であることを受け入れることなのか。だとしたら、そんな成熟は、日本にとって好ましいものなのか。
もしそんな成熟が好ましいと主張するのなら、それを基地問題で悩む沖縄の人たちに向かって主張していただきたい。日本は米国の軍事的属国なのだから、お前らも早いとこ成熟して米軍基地を受け入れろ、と。
「政治的トリックとして、戦後に日本のすべての不幸は、9条と自衛隊の矛盾から生まれているという、日本人以外の誰も信じていない「物語」を信じる」とあるが、そんなことを信じている人は、日本人でも外国人でもごく少数だろう。どこの誰がそんなことを信じているのか教えてもらいたい。
「侮られたくないならアメリカと手を切って「アメリカに核を撃ちこむ権利」を留保するしかない」というのは、意味が解らない。もともと非核武装国家である日本には、「アメリカに核を撃ちこむ権利」などない。それを「留保」せよ、とはどう言う主張なのか。しかも「改憲派の諸君にその覚悟はあるまい」というのはさらに意味不明だ。アメリカに対して持ってもいない核兵器を使用しないことに、それほどの覚悟が必要なのか?
おそらく、「保有」の誤記なのではないかと思うが、ならば、「改憲派の諸君にその覚悟はあるまい」という推測は間違っている。今、自主独立・核武装論を主張する人は、決して多数派ではないが少なからず居る(参考)。彼らはもちろん改憲派である。
「「水と安全がただ」のエルドラド」というのも間違った認識だ。水道水は只同然だが、スーパーやコンビニには飲料水が売られており、ごく普通に買われている。安全が只だというのなら、セコムが個人向けサービスを展開することはないだろう。北朝鮮による拉致も現在進行中の問題だ。これのどこが「水と安全がただ」だと言うのか。他の国よりは安全なのは間違いないが、黄金郷を自称・自尊するほどではない。氏の意見は、よく言って誇大表現、悪く言えば妄想か時代遅れだ。
「軍事的プレゼンスを取り戻す代わりにこの平和と生活の質を失ってもいいと改憲論者が本気で思っているなら」というのも意味不明だ。軍事的プレゼンスを取り戻すのに、防衛費が極端に増大する、というのなら話は解るが、その根拠がない。日本の軍事費は、世界第四位。フランスやイギリス、ドイツよりも多い。にも関わらず、軍事費の対GDP比は、1%以下である。世界平均は3.5%程度だ。なお、日本の防衛費の中には、在日米軍の駐留費用も含まれている。
これより防衛費を増やさねばならない、というのならその根拠を述べるべきだろうし、その増大分が「平和と生活の質」を圧迫する、とする根拠も示すべきだ。
「北朝鮮のような軍事国家になる覚悟がないなら、改憲は口先だけにしておく方がいい」というのも意味が解らない。北朝鮮の例は、核を持てば軍事的プレゼンスと国際的発言力が飛躍的に高まる、という事実を示している。北朝鮮が、軍事国家であった理由は、まだ戦争中(休戦中)であるからだし、国内に睨みを効かせるのに軍隊が必要だからだ。後者はともかくとして、前者は核保有国となった今となっては無効かもしれない。一方日本は、その気になれば数ヶ月で核兵器開発が可能であるとも言われている。
以上より、日本が核兵器を保有するのは比較的簡単・短期間に実現でき、核兵器で軍事的プレゼンスが上がる分、通常兵力の削減を行うことが可能と言える。これは必ずしも軍事大国化ではないし、少なくとも「北朝鮮のような軍事国家」になる必要はない。
そうでない、というのなら、なぜ改憲が「北朝鮮のような軍事国家」化に繋がるのか、その具体的な理由を述べるべきだ。
最後になるが、「改憲派のロジックを突き詰めると、いずれは日米安保の廃棄、自主核武装、米国を含むどの国とも戦争することのできる「ふつうの国」になるという結論に行き着く」は何を言いたいのか不明だ。どの国とも戦争することができるからと言って、見境なしに戦争するわけでもないし、すぐに近隣諸国を侵略開始するわけでもない。
逆に、戦争できない、ということであれば、相手が一方的に宣戦布告してきた場合、どうするのか。国際法上、戦争は一方の宣戦布告から始まる。厳密に言えば、宣戦布告された時点で、戦争できない日本は、すべての軍事行動が不可能となる。
この問題が「絶妙な政治的トリック」でなんとかなる、と言うのなら、憲法のどんな部分も「絶妙な政治的トリック」で無視することが可能になる。そんな憲法は無意味だ。憲法を無意味なものにしたくないのなら、「絶妙な政治的トリック」などという誤魔化しは否定すべきであり、憲法は改正すべきだ。
2007-03-30
朝日新聞・風考計「言論の覚悟 ナショナリズムの道具ではない」
朝日新聞のコラム・風考計より、「言論の覚悟 ナショナリズムの道具ではない」より。
泥棒の被害に遭った場合に、盗品を盗人との共有財産にするなんて言ったら、盗人は被害者に友情を感じたりするんでしょうか?もしかすると、自分が間違ったことをしたにも関わらず、それを許すばかりか、盗品をくれるって言うんだから、中には友情を感じる奇特な盗人も居るかもしれませんが、少数派でしょう。
韓国の場合は「独島(竹島)は韓国固有の領土だ」と言っています。自分たちが間違っているとは思っていません。日本が譲ったとしても、韓国は「日本が譲って当然」としか思いません。そのことに友情を感じることはないでしょう。
また、若宮氏の「夢想」にそれなりの正しさを認めるとするならば、その前提として、「韓国の主張は正しい」としなければなりません。しかし、韓国の主張にはどう考えても無理があります。だから若宮氏の「夢想」は論理として成り立たず、批判を受けているのです。
ところで韓国では、日本の文化は朝鮮文化のコピーである、という言論が罷り通ってます。例えば、剣道の起源は韓国にある、と。この主張は荒唐無稽なのですが、仮にこの主張を認めて、今後剣道を「友情剣道」と呼ぶようになったら、日韓新時代のシンボルとやらになるんでしょうか?まあ、なるのかもしれませんが、それは韓国の主張は、どんなものであろうと日本が一方的に受け入れる、という時代なんじゃないでしょうか?若宮氏の「夢想」はそんなことにもつながります。
なお、剣道が特に酷いので筆頭に上げましたが、同様のことは、空手・武士道・柔道・合気道・寿司・盆栽・漫画・清酒でも起こっているそうです。
話を戻すと、若宮氏は次のようにも言っています。
でも、そういう日本寄りと言うよりはむしろ韓国寄りの言論は、日本では今までもたくさん存在していました。特に朝日新聞を筆頭として。慰安婦問題もそうだし、若宮氏が例示した韓国併合に関する批判もそうです。でもそれらは、韓国の言論の多様化にはつながりませんでした。若宮氏が批判を受けるのは、そういうところを、まったく考慮しないからでもあります。
しかし、むしろ慰安婦や韓国併合は、反対意見を「夢にも口にすべきでない」ものとして朝日新聞などが封殺しようとしてきた例に挙げるべきかもしれません。曰く、慰安婦問題・韓国併合暗黒時代を認めない代議士は腹を切れ…とは言わなかったかも知れないけど、議員辞職に追い込まれた例はたくさんあります。国会議員に限らず、他にもそういう例はたくさんありました。そう言った「砂の一粒まで絶対に譲れない」などと言ったことに対して「疑問がわく」ことはなかったんでしょうか?当時は無理だったのかもしれませんが、今はどうなんでしょうか?他人のやることはダメだけど、自分達のやることはOKなんでしょうか?
若宮氏は、自分に対する批判を「一部の雑誌やインターネット、街宣車のスピーカーなど」という偏ったものしか挙げていません。でも、そういう極端なものではなく、もっとまともな理由での批判もたくさんあったはずです。それを取り上げずに極端なものだけを取り上げるのは、マスコミお得意のイメージ操作ってもんじゃないでしょうか?そうでないというのなら、まともな批判をもっと真摯に受け止め、反省すべきでしょう。
私はといえば、ある「夢想」が標的になった。竹島をめぐって日韓の争いが再燃していた折、このコラムで「いっそのこと島を韓国に譲ってしまったら、と夢想する」と書いた(05年3月27日)。島を「友情島」と呼ぶこととし、日韓新時代のシンボルにできないか、と夢見てのことである。まー、なんて言うか、百年も前のことを現在の倫理で測ってどうする、って話ですが、仮に百年前の韓国併合が当時の倫理としても(当然現在の倫理としても)間違っていたとしたら、現在の竹島占領はどうなのでしょうか?もちろん間違っていると結論せざるを得ないでしょう。それを「間違っている」とも言わずに日本側だけに譲歩を求めるような「夢想」だから、批判を受けているのだ、ということに若宮氏は気付いてないのでしょうか?
だが、領土を譲るなどとは夢にも口にすべきでない。一部の雑誌やインターネット、街宣車のスピーカーなどでそう言われ、「国賊」「売国」「腹を切れ」などの言葉を浴びた。
もとより波紋は覚悟の夢想だから批判はあって当然だが、「砂の一粒まで絶対に譲れないのが領土主権というもの」などと言われると疑問がわく。では100年ほど前、力ずくで日本に併合された韓国の主権はどうなのか。小さな無人島と違い、一つの国がのみ込まれた主権の問題はどうなのか。
泥棒の被害に遭った場合に、盗品を盗人との共有財産にするなんて言ったら、盗人は被害者に友情を感じたりするんでしょうか?もしかすると、自分が間違ったことをしたにも関わらず、それを許すばかりか、盗品をくれるって言うんだから、中には友情を感じる奇特な盗人も居るかもしれませんが、少数派でしょう。
韓国の場合は「独島(竹島)は韓国固有の領土だ」と言っています。自分たちが間違っているとは思っていません。日本が譲ったとしても、韓国は「日本が譲って当然」としか思いません。そのことに友情を感じることはないでしょう。
また、若宮氏の「夢想」にそれなりの正しさを認めるとするならば、その前提として、「韓国の主張は正しい」としなければなりません。しかし、韓国の主張にはどう考えても無理があります。だから若宮氏の「夢想」は論理として成り立たず、批判を受けているのです。
ところで韓国では、日本の文化は朝鮮文化のコピーである、という言論が罷り通ってます。例えば、剣道の起源は韓国にある、と。この主張は荒唐無稽なのですが、仮にこの主張を認めて、今後剣道を「友情剣道」と呼ぶようになったら、日韓新時代のシンボルとやらになるんでしょうか?まあ、なるのかもしれませんが、それは韓国の主張は、どんなものであろうと日本が一方的に受け入れる、という時代なんじゃないでしょうか?若宮氏の「夢想」はそんなことにもつながります。
なお、剣道が特に酷いので筆頭に上げましたが、同様のことは、空手・武士道・柔道・合気道・寿司・盆栽・漫画・清酒でも起こっているそうです。
話を戻すと、若宮氏は次のようにも言っています。
実は、私の夢想には陰の意図もあった。日本とはこんな言論も許される多様性の社会だと、韓国の人々に示したかったのだ。<<略>>つまり、一方的に韓国を擁護するような発言をして、韓国を諭そう、ということなんでしょう。
韓国ではこうはいかない。論争好きなこの国も、こと独島(竹島)となると一つになって燃えるからだ。
でも、そういう日本寄りと言うよりはむしろ韓国寄りの言論は、日本では今までもたくさん存在していました。特に朝日新聞を筆頭として。慰安婦問題もそうだし、若宮氏が例示した韓国併合に関する批判もそうです。でもそれらは、韓国の言論の多様化にはつながりませんでした。若宮氏が批判を受けるのは、そういうところを、まったく考慮しないからでもあります。
しかし、むしろ慰安婦や韓国併合は、反対意見を「夢にも口にすべきでない」ものとして朝日新聞などが封殺しようとしてきた例に挙げるべきかもしれません。曰く、慰安婦問題・韓国併合暗黒時代を認めない代議士は腹を切れ…とは言わなかったかも知れないけど、議員辞職に追い込まれた例はたくさんあります。国会議員に限らず、他にもそういう例はたくさんありました。そう言った「砂の一粒まで絶対に譲れない」などと言ったことに対して「疑問がわく」ことはなかったんでしょうか?当時は無理だったのかもしれませんが、今はどうなんでしょうか?他人のやることはダメだけど、自分達のやることはOKなんでしょうか?
若宮氏は、自分に対する批判を「一部の雑誌やインターネット、街宣車のスピーカーなど」という偏ったものしか挙げていません。でも、そういう極端なものではなく、もっとまともな理由での批判もたくさんあったはずです。それを取り上げずに極端なものだけを取り上げるのは、マスコミお得意のイメージ操作ってもんじゃないでしょうか?そうでないというのなら、まともな批判をもっと真摯に受け止め、反省すべきでしょう。
2007-03-06
【天声人語】2007年03月06日(火曜日)付: 若桑みどりって人は一体…?!
今日の朝日新聞の天声人語、びっくりしました。天正キリシタン少年遣欧使節(1582~1590)が帰国後、キリシタン弾圧に遭い殉教するという悲劇を紹介した上で、次のように書いている
仮に日本が鎖国をしなかったら、日本がどうなったか?おそらくは、他のアジア諸国と同じ運命を辿っただろう。ポルトガルがマラッカを征服したのが1511年。1571年にはフィリピンのほぼ全土がスペインの植民地となった。支那も18世紀には欧州列強の半植民地になっていた。日本がこれらアジア諸国と同じ運命を辿ることになる危険性は非常に高かったのだ。
それに第一、十六世紀末の欧州に「個人の尊厳と思想の自由、そして信条の自由」なんてものがあったのか?フランス革命バスティーユ襲撃が1789年。天正使節団の約200年後だ。しかも、フランス革命はジャコバン派による恐怖政治など、実際には「個人の尊厳と思想の自由、そして信条の自由」なんてものは全く実現されていない時期もあったし、フランスの状況が安定したのは百年以上経った十九世紀初頭のことだ。
これらことから考えても、十六世紀末の欧州諸国と交流することによって「個人の尊厳と思想の自由、そして信条の自由」が得られたかというと非常に疑問だ。植民地化された日本が、宗主国との間で「個人の尊厳と思想の自由、そして信条の自由」を争う独立戦争を行ったかもしれない、という意味では「個人の尊厳と思想の自由、そして信条の自由を戦いとった西欧近代世界」と同じような道を辿ったかもしれない。しかしそれはおそらく、他のアジア諸国が植民地支配を脱出したのと同じ、二十世紀後半以降になったであろうことは想像に難くない。それとて、独立日本が明治政府を樹立し、欧米諸国と肩を並べるまでになった歴史なしには、早すぎる予測と言わざるを得ないのではないか。
若桑みどりは「ジュリアンを閉じ込めた死の穴は、信条の自由の棺であった」と書いたが、1890年に施行された明治憲法では、
若桑みどりも朝日新聞も、歴史の知識と想像力を自己点検した方が良いだろう。
なんてことを書いた後で、この本を買おうって人がいるんだろうか…
『クアトロ・ラガッツィ——天正少年使節と世界帝国』(集英社)を著して大佛次郎賞を受けた若桑みどりさんは、その中で、4人の悲劇は日本人の悲劇だったと書く。「日本は世界に背を向けて国を閉鎖し、個人の尊厳と思想の自由、そして信条の自由を戦いとった西欧近代世界に致命的な遅れをとったからである」。そして「ジュリアンを閉じ込めた死の穴は、信条の自由の棺であった」とも記す。この若桑みどりって人は想像力か歴史の知識が欠如しているんじゃなかろうか?
仮に日本が鎖国をしなかったら、日本がどうなったか?おそらくは、他のアジア諸国と同じ運命を辿っただろう。ポルトガルがマラッカを征服したのが1511年。1571年にはフィリピンのほぼ全土がスペインの植民地となった。支那も18世紀には欧州列強の半植民地になっていた。日本がこれらアジア諸国と同じ運命を辿ることになる危険性は非常に高かったのだ。
それに第一、十六世紀末の欧州に「個人の尊厳と思想の自由、そして信条の自由」なんてものがあったのか?フランス革命バスティーユ襲撃が1789年。天正使節団の約200年後だ。しかも、フランス革命はジャコバン派による恐怖政治など、実際には「個人の尊厳と思想の自由、そして信条の自由」なんてものは全く実現されていない時期もあったし、フランスの状況が安定したのは百年以上経った十九世紀初頭のことだ。
これらことから考えても、十六世紀末の欧州諸国と交流することによって「個人の尊厳と思想の自由、そして信条の自由」が得られたかというと非常に疑問だ。植民地化された日本が、宗主国との間で「個人の尊厳と思想の自由、そして信条の自由」を争う独立戦争を行ったかもしれない、という意味では「個人の尊厳と思想の自由、そして信条の自由を戦いとった西欧近代世界」と同じような道を辿ったかもしれない。しかしそれはおそらく、他のアジア諸国が植民地支配を脱出したのと同じ、二十世紀後半以降になったであろうことは想像に難くない。それとて、独立日本が明治政府を樹立し、欧米諸国と肩を並べるまでになった歴史なしには、早すぎる予測と言わざるを得ないのではないか。
若桑みどりは「ジュリアンを閉じ込めた死の穴は、信条の自由の棺であった」と書いたが、1890年に施行された明治憲法では、
第二十八条 日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有スとある。仮に棺に閉じ込められなかったら、信教の自由とやらは何年頃に実現したと若桑みどりは考えているのだろう?
若桑みどりも朝日新聞も、歴史の知識と想像力を自己点検した方が良いだろう。
なんてことを書いた後で、この本を買おうって人がいるんだろうか…
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